しかし漢代に中国が統一され大帝国が誕生すると、いわゆるシルクロードが開かれ、かつての東西文化の交流はますます盛んになったのである。
この漢代に『黄帝内経素問』『霊枢』『神農本草経』『傷寒論』といった医学に関する書物が編纂された。
しかしこの頃の日本(弥生時代)は辺境に位置し、これらの古典が直接入ってきて影響を受けたとは思えない。
日本に中国医学が本格的に移入されたのは明代と思われる。
明代になると海上交通が発達し、物資や文化の伝来が大変活発になる。医学が普及するためにはどうしても薬が必要となる。
中国医学が日本で普及するためには漢方薬が無ければならなかったのである。
したがって本格的に中国医学が日本に入ってきたのは海洋ルートが確立し、薬・知識・書物が大量に輸入されるようになった明代というのが自然だと思われる。
確かに知識や一部の生薬については既に、鑑真和上などによってそれまでに伝えられていたではあろう。
しかし一般に普及したのは室町から安土桃山時代ということになる。
丁度この頃、日本には一つの流派が生まれた。
田代三喜という人が明に13年間留学して当時の中国医学を修め、帰国後京都の曲名瀬道三にその知識を伝えた。
そしてこの曲名瀬道三を中心に全国に中国医学が伝播したが、これが後に後世派と言われる流派となる。
しかし江戸時代、すなわち中国では清代に当たるが、『傷寒論』を中心とする漢代の医学をもう一度復興させようという動きがまず中国に起こり、日本でも『傷寒論』『金匱要略』を中心とした学派が生まれ古方派と言われた。
後世派というのはこれに対して作られた名称である。
そして更にこの二つの流派の考え方が違い、また派閥を作って互いに対立し合うといったことから、折衷派といわれる第三の流派が形成された。
現在の日本でもなおこういった三つの流派のなごりが残存する。